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image credit:reddit.com

今でこそ日本には海外から数多くの人たちが訪れていますが50年前はまだまだ珍しい存在でした。
1968年に岩国の仏教保育園に通っていたという人が当時の記念写真を投稿していました。

引用元:reddit.com

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●投稿主
これは1968年の岩国。
自分は仏教保育園に通った初の外国人だった。
中央の僧侶が園長先生で右端のブロンドが自分。
もう一人の西洋人は母親の友達の子供。
確か名前はジョーだったと思う。
自分が悪魔じゃないと分かった後で彼と仲良くなれた(辛うじて)。
先生は凄く良い人だったのを覚えてる。
自分の中に今も息づく道徳的基盤を作ってくれたのがこの先生だ。
先生は今もご存命で現在保育園を運営している息子さんと話をしたことがある。
保育園を訪れるつもりがあると言うと先生方はみんな喜んでくれた。
しかし人生はままならないもので突然骨髄移植が必要になってしまったんだ。
ようやく治療が終わったと思ったら新型コロナウイルスがやってきた。
結局戻ることは叶わなかった。
あの保育園は自分にとって故郷のようなもので、凄く懐かしい。

保育園の隣には神社があって、グランドには柿の木が生えていた。
無限に実がなっていて、成績のいい子供には先生が柿をもいでくれたよ。
自分は成績が良くなかったからこっそり柿をもいだこともある。
木の上で大きな柿の実にかじりついたら…変に聞こえるかもしれないけど、まるで太陽の光のような味がした。
今まで色々旅をしてきたけどあの柿のような味を経験したことは一度もない。

その柿の木は今も生きていて実をつけていると聞いた。
新型コロナウイルスが落ち着いたらすぐにでも岩国に行ってもう一度あの太陽の光の味を味わうつもりだ。

●comment
美しい話だね。
紹介してくれてありがとう。
応援してる!

●comment
娘も保育園でただ一人の外国人として同じような体験をしていたね。
簡単ではなかったけど先生方が良くしてくれたし保育園のグランドはとにかく素晴らしかった。
保育園では園児が餌をあげられるブーちゃんという名前の豚も飼ってたよ。
娘はそこで友達ができて今でも家族で日光に行く時はその友達のところを訪れてる。

●comment
早く行けるようになると良いね。
不思議なことに確かに日本の柿は太陽の光の味がすると思う。
柿は大人になって初めて食べた。
子供の頃は”食べちゃ駄目”と言われていて、どれほどの美味しさなのか想像もできなかった。
(ちなみに初めて西瓜を食べたのは7歳の時に行ったイタリア旅行でだった)

●comment
素晴らしい話だった!

●comment
>もう一度あの太陽の光の味を味わうつもりだ
涙が出てきた。
自分もいつかまた感じたいと思っている”太陽の光”を持っている。
日本に戻れると良いね。

●comment
日本に戻ることがあれば是非ともその時の話を聞きたいな。
グッドラック!

●comment
どの位日本にいた?
大人になるまでいたのか、それとも親が日本で働いていた関係で短期間のみ?
聞いた感じ日本語を理解してるみたいだけど。
凄く興味深いね。

●投稿主
↑日本にいたのは3年間。
当時は日本語を話していたよ。
残念ながらアメリカに戻ったら日本語を話す人は1人もいなかったからほとんど忘れてしまったけど。
少しは回復したけどね。
いずれ思い出すと思ったけど無理だった。
面白いことに自分は英語で話す時や文を書く時に日本語の構成を使うことがあるんだ。
特に日本人が相手の時はそうなるね。

●comment
>自分の中に今も息づく道徳的基盤を作ってくれたのがこの先生だ。
これが興味深いね。
もっと聞いても良いかな?

●投稿主
↑これが大きかったね。
ちょうど人格形成期で、日本での生活は人生を変えるのではなく基盤となってる。
非常に説明しにくい内面的に深い考えを持っているよ。
知らずに身につく類のもので”場の空気”に対する考えは自分の中に深く根差してる。
その上に自分の仏教の基礎がある。
自分は元々から仏教徒であると言えるだろうね。
考えることもなくただそうある。
世界に対する見方は僧侶に教えてもらったものだし大切にしてる。
脳の中にはアメリカ的な部分もあるけど、そうなる前は日本人だった。
それから神道もあるね。

●comment
早く戻れると良いね。
楽しい思い出話だった。

●comment
去年の11月に2週間岩国に滞在してたよ!
凄くいい街だった。
義理の兄弟が衛生下士官としてそこに駐屯してるんだ。
岩国で会った人たちはみんな凄く良い人たちばかりで、特に酎ハイ居酒屋の店主が凄く良かった。
ジャクソンビル・ジャガーズ(※NFLのチーム)の大ファンで、アメリカ国外のジャガーズファンに初めて会ったよ。
岩国でバーを経営しているバーテンダーのアスカさんは凄くいかす人で早くまた戻りたい。
母親が1969年に横浜の高校に通ってたよ。
(マーク・ハミルが通ってた年と同じなんだけど彼よりも数年下の学年だった)
次は横須賀か横浜に行きたいと思ってる。
※マーク・ハミルは高校時代に横須賀の米軍基地内にあるナイル・キニック・ハイスクールに通っていた。wikipedia

追記:人生最高のジャークチキンは岩国で夫婦が経営してる小さなレストランで食べたもの。
その夫婦は7年間ジャマイカに住んだ後で日本に戻ってきたんだ。
最高のジャークチキンカレーだった。

●投稿主
↑自分も海兵隊で衛生下士官だった!
マーク・ハミルのことは知らなかった。

●comment
ありがとう、おかげで良い日になったよ。
また岩国に戻れると良いね。

●comment
素晴らしい話をありがとう。
早く新型コロナウイルスが治まって保育園に戻れることを願ってる。
幸運を祈ってる。

●comment
詩的な話だった。
ありがとう。

●comment
1968年から1969年まで岩国に駐屯していた。
投稿主程に素敵な時を過ごしていたわけじゃないけどここで妻に出会えたし二人ともまだまだ元気だよ。

●投稿主
↑ボーリング場に行ったことはある?
当時父親はそのボーリング場の管理をしてたんだ。

●comment
↑ボーリングはしたことがなかったな。
映画館に行ってた。

●comment
凄い子供時代だっただろうな。

●comment
まずは素晴らしい話をありがとう。
先生方も会いたがっていると聞いたけど今何歳位なんだろう?
亡くなった方もいるのかな?
今も当時の子供たちと連絡を取ってる?

●投稿主
↑知る限りみんな生きているみたいだね。
自分が園長先生に連絡を取った後でみんな集まったみたいだ。
当時は他の子供たちと連絡を取り合うことは凄く難しかったけど、自分が戻ってくるかもしれないという話が人づてで伝わっていって、先生から連絡がいったクラスメートもいたみたいだね。

●comment
素晴らしい話だった。
幾つも質問があるけど、まず2つの質問から。
ジョーとはそれ以降連絡を取ってないのかな?
なんで日本を離れることになった?

●投稿主
↑連絡は取ってないね。
日本を離れたのは父親がノースカロライナ州のキャンプ・ルジューンに駐屯することが決まったから。

●comment
どうやら投稿主は軍人一家なのかな。
岩国には海兵航空基地があるからね。
今年何度か行く予定だった。
孤立しすぎてないといいけど。

●投稿主
↑そう、軍人一家なんだ。
自分が住んでた1968年当時の岩国は村のような感じだった。
東京のような場所とはかなり目立つ岩国弁を話してたよ。
方言を喋るかどうかではっきりわかる。
クラス旅行で東京に行った時に迷子になったんだけど、自分が話し始めたらみんなどこから来たのかすぐに分かったみたいだ。
でも今の岩国はかなり発展してるね。
広島市から17kmしか離れてないから列車に乗ったらすぐだ。

●comment
当時は何歳だった?

●投稿主
↑5歳だったと思う。4歳かも。

●comment
是非とも投稿主の話をもっと知りたいな。
本を書く予定とかある?

●投稿主
↑実を言うと”ペリカンストーリーズ”というプロジェクトに着手してるんだ。
最近小さな書斎を作ったよ。
子供や孫、子孫、知りたいと思っている人のための回顧録を書いてるところだ。
いろんな話があるからね。






岩国で子供時代を過ごし、様々な体験をしたようです。
岩国弁を話す外国人の子供が迷子になっていたら確かに目立ちそうです。




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