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俳句は世界中にファンがいます。
とは言っても日本語環境下で生まれ育った文芸だけに、他の言語で詠む場合は音数や表現を合わせるのが非常に困難です。
俳句と言えば575の音数で詠む事が一般的ですが、英語圏においては5音節、7音節、5音節で詠むのがセオリーとなっているようです。
とはいえ、それでも合わせるのは難しいようで1人の俳句ファンが、あえて575に合わせる必要はあるのかと疑問を呈していました。

引用元:Why do some people feel 575 is the only way to go?
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●フロリダ州、アメリカ:女性:47歳
私が出会った人達の何人かは俳句は575のパターンに合わせなくちゃいけないと言っていた。
彼らはその事にかなり拘っていて、そうじゃないものは”間違ってる”と感じているみたい。
日本の俳句のほとんどがそのフォーマットに従っているのは知ってるけど、翻訳する時はそれに拘っていないよね。
なんでその事にそんなに拘ってるのか単純に興味があるんだ。

●カリフォルニア州、アメリカ:男性:65歳
ハイ。
そういう考えは中学、高校、大学みたいなものから来てるんじゃないかな。
もし記憶違いじゃなければ、私が子供の頃は575が唯一教えられた事だったんだ。
(私はいま65歳だ!)
彼らが違いを知れば、それは地上の塵の様に些細な事なんだと気付くと思うよ。
人々は教えられてきた事、信じてきた事のために立ち上がるものなんだ。
それは自然なことだよ。
そこから情熱はやって来るんだと思う。
私自身は気にした事も無い。
日本語と英語の異なる側面を比較し、学ぶような教育システムを作り上げるのは長い時間と労力を必要とするだろうね。
これは氷山の一角に過ぎないから。
彼らも経験を多く積めば、自分の詠みたい様に詠むようになるんじゃないかな…そうなれば万事よしだ!!

●女性
ヘロー。
何人かの人達が575に情熱を注いでる事は知ってるけど、彼らがそれ以外の俳句を”間違っている”と言ってるのは聞いた事が無いな。
俳句を詠む時に自分自身が575に拘ることと、それに全ての人が従うべきだと考えるのは大きな違いがあると思う。
後者に関しては何故そんなに強く拘っているのか考えるのは難しいね。
彼らは人生の中で文字数を限定して詠む事が好きになり、それがより本物だと思っているのかな?
そういう風にしようと思った人達がここに来て私達を啓蒙してるんだろうね。
私自身は、475とか565とか収まりがよいように微調整してなるべく575に近いようにしようと心がけてるかな。
でもそのパターンに拘ったりはしてない。
それと575で書かれた凄く良く出来た俳句も詠んだ事あるよ。

●アバディーン、スコットランド、UK:男性:44歳
私は575で詠んでる。
575で詠もうとする精神的な挑戦が好きなんだ。
でも、実際の所その形式を厳守してるわけじゃなくてむしろ逆のこと、私の詠む句のほとんどが短いものになってるんだけどね。

i think ppl are conservative (人は保守的だと思う)
that is why they go with what they are taught(彼らは教えられてきたことに従っているからだ)
and are reluctant to change(変化に消極的でもある)

個人的に詩として読めるなら…それでいいんだ。

●不明
私の場合逆の事を疑問に思ってる。
何故俳句雑誌は575形式を拒否するのか、具体的にはそれを送るべきではないと言ってるのだろうか?
音節数を固持しない事、575の音節数を護ることも理解できるが、読みもせずに575を除外するのは変だと思う。

●ニューブランズウィック州、カナダ:女性
ええと、他の人に関しては分からないけど私としては、575の音節で書かれた俳句のほとんどが冗長になってしまう傾向にあるというのが問題の論点だと思う。
俳句を正しい音節数にするために余計な言葉を付け足す事がよくあるから。
普通、英語の575形式で詠まれた俳句は、伝統的な575形式で詠まれた日本語の俳句よりも多くの情報を持っている。
英語の音節と日本語の音(おん)は同じものでは無いから。
日本語の音(”おん”や”かな”と呼ばれている)は英語の音節よりも短いんだよね。
日本語の音数に影響を与えているもう1つの点は、話し言葉や書き言葉で句読点として用いられている切れ字の存在があるね。
この切れ字は音数の中に含まれている。
つまり17音節使った英語の俳句を日本語に訳す場合、17音以上になってしまう可能性があるという事だね。

●不明
>何故俳句雑誌は575形式を拒否するのか、具体的にはそれを送るべきではないと言ってるのだろうか?
言ってる事がよく分からないな。
私は575で詠む事にこだわって無いけど、もしそのフォーマットで上手く詠む事が出来たらそれをファイナルバージョンにしているよ。
575音節の俳句を『The Heron's Nest』や俳人のための『From the Gean』等、幾つかの雑誌に採用されたこともあったし。
この形式で詠んだ俳句を他の誰かに認められたのは嬉しかったな。

●ニューブランズウィック州、カナダ:女性
↑同意する。
Berry Blue Haiku(子供向けのオンライン俳句雑誌)なんかだと短い句になる傾向があるけど、私達が発刊してる俳句は575形式で公開してるよ。
良く出来た俳句なら音節数は問題じゃないかな。

●アバディーン、スコットランド、UK:男性:44歳
何故575を使わないのか、というのは良い着眼点だね。
この575の俳句に注目してもらおうと思う。

Dangerous pavements(危険な街路だ)
But I face the ice this year(しかし今年の私は氷に立ち向かう)
With my father's stick(父の杖と共に)

この句は俳句として必要なものを全て持っていると思う。
季語が入っていて、省略した部分や水増しした部分もないように見える。
しかも”しかし(but)”が”詩”として別の側面を与えていもする。
彼が昨年杖を使っていなかったという事は、彼の父親の死を推測する事も出来るだろう。以前私が言った様に、詩として作用しているならそれでいいんだ。
この句はニューヨーク在住のアイルランド詩人にしてノーベル文学賞受賞者、シェイマス・ヒーニーが詠んだものだ。
wikipedia:ジェイマス・ヒーニー

●アメリカ
英語での575形式俳句に対する長所、欠点が見れて嬉しいよ。
私は(小説家の)リチャード・ライト(wikipedia)の大ファンで、彼は575形式で詠んでるんだよね。
私達はちょっと自由律の俳句に心奪われすぎで、詠んだ詩を見る事を忘れてないかな?
きちんと詩になっているか?
イメージ/考えを伝えているか?
言葉が響いているか?という事を。
私の言った事とは関係なく、音節数っていうのは俳句を詠む中で一番大事な部分だと思う。

●不明
もし想像力(無意識的創造力)が575形式に魅了されているならそれでいけばいいし、それを自分の喜びであると主張すればいい。
それは自由なんだし、(自由や創造的な)感情や経験を得た時にはそれを多々壊すようになると思ってるよ。
別の言葉で言うなら、創造性に応じて適宜変更せよ、だ。

●不明
みんなが走っている俳人に向かう高速道路にはこんな道路標識が立っているよ。
即ち

REDUCED(とりあえず)
SYLLABLE COUNT(文節数を)
AHEAD(減らすべし)


●ニューブランズウィック州、カナダ:女性
↑笑った!
凄く良いね!

●不明
私が気に入った詩を見つけた時、それは大抵575の句なんだよね。
(時にはそれを気付かなかった事もある位!)
最悪な句にあって、最高の句には無いもの。
それは水増しした言葉。
個人的には自由律の句を詠んでいて、575形式で詠もうとした時もあったけど、それは凄く難しい事が分かったよ。
規定の音節内で俳句を詠んでいる人には脱帽する。
私は音節数で俳句の良し悪しを判断する事は無いけど、読んだ時や口に出した時のリズムやペースでは判断するね。
ここで新人の人たちにコツを。
自分の詩を口に出して読んでみよう。
もし舌が泳ぐようなら、眼もそうなる可能性がある。
声に出して読む事で(例え息遣いで詩に聞こえなくても)どこを直すべきかを”聞く”事になるからね。

●イースト・サセックス州、UK:女性
17音節は575形式にならなくても、1-2-3-5-3-2-1みたいなフィボナッチ俳句にはできるよね。
(訳注:フィボナッチ俳句はフィボナッチ数式にちなんで1-1-2-3-5-8音節で詠む俳句)
One(1つの)
Small,(小さく)
Precise,(正確で)
Poetic,(詩的な)
Spiraling mixture:(螺旋の混合物)
Math plus poetry yields the Fib(数学と詩はフィボナッチをもたらす)

wikipedia:フィボナッチ数

●フロリダ州、女性:47歳
フィボナッチ俳句大好き!
575の持つ数学的な要素が好きなんだけど、それで詠む努力は止めちゃってるんだよね。
偶然にも再びそれをやってみようという気になってたんだ。
数学にインスパイアされたチェス大会の句を詠んでみたよ。
(私はチェスのコーチをしてるから)

forty eager faces(熱意ある40人)
twelve hundred and eighty squares(1200と80のマス目)
one winner(勝者は1人)

(どんな評価になるかは分からないけど、40人の生徒達がゲームに挑む様子をみんなと共有したいと思ったの。パワフルな瞬間だった!)

●イースト・サセックス州、UK:女性
↑良い俳句だね。
フィボニッチ俳句を詠んでみようと思ったけど、上手く収まる句を考えられなかった。
フィボニッチ俳句は面白いけど、詠むのは忍耐力が要るね。

●男性
575か。
5のダッシュ(-)
7つのダッシュに
5つの!

伝統的に縦書きで書かれ、読む事が心地よい5文字(日本人にはそれぞれの文字が区切られて聞こえる)7文字、5文字を5音節、7音節、5音節にしようというのがそもそも間違いなんだと常々思ってるよ。

ネイティブな日本語で読んでいる俳句を、日本語を流暢に話せない日本人以外の人が話そうとした場合、途切れて聞こえるはずだ。
今や…音節で区切るという英語圏での福音となった方法は私の手に余る。
一応言っておくと、私の批判はレジナルド・ブライスに向けられたものだ。
(訳注:レジナルド・ブライスは西洋圏に俳句を紹介したイギリスの文学者・日本文化研究家:wikipedia

音節数(count)の事を言うなら…良い詩は良い詩なんだから、音節数なんか関係ない(don't count)良い詩を数え切れないほど見てきたよ。
(訳注:音節数は関係ないと数え切れないを”don't count”でかけている)

●ミネアポリス、ミネソタ州、アメリカ
ちょっと拘りすぎかもしれないけど、自分は詩の内容をまげて575形式にしてるよ。
クリスマスカードに一句添えて出したんだけど、俳句の事をよく知らない人達のためにこれは俳句だと分かってもらうために575形式にしたんだ。
もっと厳格にやるべきだったかもね。

●不明
↑友人や家族に贈るものだったらそんなに厳格にすることも無いと思うけどね。
近代俳句や一行詩俳句って呼ばれてるものもあるんだし。
17音節で詠まれていればどんな酷い俳句でも俳句と見なして、17音節以下で詠まれた俳句を下に見る人がいるのは残念でならないよ。
17音節の俳句はそれだけで良いものだと見なされてるのかな?

●ニュージャージー州、アメリカ
ミニマリストであろうとなかろうと、多くの人達が17音節を超えることを怖れてhippopotamus(カバ)やcalamari(イカ)という言葉を使うことを避けてるんだよな。
私の俳句は基本的に縮めて使ってる。
squidよりもcalamariの方が使い勝手が良いこともあるし、こういう長い言葉は時に新鮮でもあるからね。

In a swarm of yellow-jacketsz(黄色ジャケットをまとった群れの中)
a squirrel drinks water(1匹のリスが水を飲んでいる)
feet in the cool clay, head way down.(足は冷たい粘土に、頭を下げて)
ゲーリー・スナイダー
(アメリカの詩人。京都に滞在して臨済禅を学び、宮沢賢治の詩の英訳などを行う:wikipedia




日本語のように1音1語だと英語で詠むとほぼ単語の羅列でしかなくなり、音節で575にすると時に冗長になってしまい、それだと情景を短く表わす俳句の考えから外れるのではないかという疑問も生まれるようです。
海外だと575形式や季語や切れ字にもこだわらず、情景や心象を短くまとればそれで俳句と考える人も多いようです。
日本の自由律俳句に近いのでしょうか。




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