
東日本大震災から今日で4年が経ちました。
復興はだいぶ進みましたが、今もなお当時の爪痕が残されている地域もあります。
2011年3月11日、当時の自分は何をしていたのか、何を感じたのか、海外の人達が語り合っていました。
スポンサードリンク
|
|
●女性
私は空母ロナルド・レーガンに赴任していて、韓国のソウルに行く途中だったけど災害救助のために直接日本に向かうよう指令が下った。
●ロサンゼルス、カリフォルニア州、アメリカ:男性
癌で入院してたけど、日本の原子力発電所で働く労働者のための救済基金に即募金したよ。
それから日本に住んでいる友達に安全かどうかメールした。
●不明
↑癌はどうなったの?
●ロサンゼルス、カリフォルニア州、アメリカ:男性
↑無事治ったよ。サンクス。
●不明
荒廃が広がっていく様に無力さを感じてたな。
●日本在住
国際交流ラウンジでの仕事が午後1時に終わって、そのラウンジで働いた3年間の最後の日でもあった。
金曜日だったし、家に帰る途中のスーパーマーケットでご馳走を買いこんで、家に着いてパソコンを立ち上げてFacebookのログを見ている最中に地震が始まったからニュースで何か情報が無いかとテレビを付けた。
地震の後もアフターショックで何日も外に出られなかったから食料を買い込んでおいて本当に良かった。
あれから今も緊急用に食料をストックしてあるよ。
●パウダースプリングス、ジョージア州、アメリカ:男性
津波が全てを飲み込んでいく様をテレビで見ていた。
●女性
横須賀海軍基地にある家のリビングで娘と一緒にテレビの前に座ってた。
もう一人の娘が学校から帰ってきた時に住んでた高層ビルが揺れ始めた。
生涯で一番恐ろしい日だったな。
●男性
イリノイ州でスクールバスの運転手をしてるんだけど、当時の午後は子供達が”日本を好きならクラクションを鳴らして”という看板を持って通りの角に立ってたたね。
通り過ぎる時にクラクションを鳴らしたら”イエー!”と叫び声をあげてた。
子供達は素晴らしい事をしてると思ったな。
それからニュースや『Pray for Japan』という映画を見て、力を合わせて災害に立ち向かっている日本の人達みんなを尊敬するようになったよ。
アメリカ人ももっと日本人のようになったら良いのに。
●男性
日本が悲劇に見舞われている頃、ここアメリカは深夜だった。
日本の人達の事を思うと悲しくなったな。
あんな目に遭っていい国なんて無い。
●女性
当時は東京の恵比寿駅にいたよ…
階段を駆け下りて、何かが壊れる音を聞いて、泣きながら走る子供、真っ青な顔で口を開けたままのサラリーマン達、パニックになって電話をかけまくる他の外国人達を見た。
外に出たら高いタワーが前後に揺れてるのが見えて…怖かった!
建物の2階から水が溢れてたのも覚えてる。
怯えた人達が通りを歩いてて、ネイルサロンで何事もなかったかのようにネイルケアをしてた女の子もいたね。
渋谷駅まで歩いて、家までの電車を待ち、9時間後にようやく電車が動き出して心配だった猫のいる我が家に戻ることが出来たよ。
猫はドアの前で鳴きながら私をずっと待ってた。
たった1匹で、どれだけ怖い思いをして待ってたんだろう!
それからアメリカにいる母親に電話して無事だと伝えた。
ここ日本で暮らす外人にとって凄まじく厳しい1日だったね。
それから数週間はもの凄くストレスが溜まる日々だった!
●ドバイ、アラブ首長国連邦:女性
東京にいたけど、本当に恐ろしくてトラウマになった。
今でも記憶に鮮やかに残ってる。
●女性
支援に行く準備をしてた。
次の日にREDOG(スイスの人道支援のための探索救助犬協会)と一緒に日本に向かったよ。
2日後にはスイスの救助犬と共に南三陸にいた。
●女性
被災した地域に友達がいたし、こんなに美しい国が恐ろしくも悲しい目に遭ったという報せには衝撃を受けたから、2012年に日本に行ったんだ。
復興支援のイラスト集『マグニチュード・ゼロ』で支援した事も誇らしく思う。
突然こんなに大規模な破壊が起こったなんて信じられない位だった。
本当に心が痛んだよ。
日本が大好きで、11歳の頃から日本に行く事を夢みてたから。
宮城の人々が震災から立ち直っているという報せ、復興が進んでいるという報せを待ち望んでるよ。
●ゴイアニア、ブラジル/日本在住:男性
日本で働いてるんだけど、当時の気持ちはとても言葉では表せない!
●不明
娘と一緒に行く日本旅行のために銀行で円に換えている最中だったよ。
津波のニュースがあった一週間後に日本に行ったから、旅行の計画を変更する事になった。
三週間の最初の一週間は東京に行く予定だったのを大阪に変更して京都での時間を伸ばしたんだ。
日本ではどこに行ってもこんな出来事があったにもかかわらず日本に来た我々の事を歓迎してくれたよ。
シュールな感じでもあったね。
あらゆる意味で特別な体験だったな。
苦しんでいるにもかかわらず、日本の人々はストイックだったし直接震災の影響を受けた人達を支援していたね。
私達の家族が住んでいる松山は素晴らしい人々ばかりで、福島に住む人々のために寄付金を送っていたよ。
●女性
日本に30年間住んでいて、一番年若い息子と一緒にアメリカに戻ってきた1年後のことだったな。
夫は一人東京に残って働いていたから凄く心配だった。
彼は線路を2時間歩いて仕事場に行き、運よくカプセルホテルに泊まることが出来たみたい。
その場にいなかった事に罪悪感を感じたね。
震災の様子を見る度に涙が出てきた。
私は2011年の5月に日本に戻ったよ。
家族は放射能の事を心配してたけど、夫と一緒に結婚記念日を祝いたかったし、夫の無事を見たい私にとっては大した問題じゃなかったから。
それからシカゴで頑張っている日本人コミュニティのために出来る限りのことをして、寄付金も募ったよ。
●男性
カリフォルニアで太平洋時間の午後9時47分、テレビで津波が福島県を襲うのを見てた。
どのチャンネルも同じ内容を流していて、3時間以上破壊の様子を伝えていたね。
心が痛んだよ。
●ポンプトン・レイクス、ニュージャージー州、アメリカ:女性
東京で学生をしてて娘から大きな地震があったというメールが届いて数日後に娘を連れ戻したよ。
娘は4月に日本に戻っていった。
●ヴロツワフ、ポーランド:女性
ベルリンに来てた日本バンドのコンサートに行ってたんだけどそこで日本が津波に襲われたと知ったな。
●男性
学校で地震に遭った。
1年半後に石巻に震災後の掃除に行ったよ。
●不明
当時はイタリアで福祉のボランティアをしてて、朝のシフトだった。
同僚の一人が新聞に載っていた日本の震災の事を教えてくれたんだ。
驚き、悲しくなってテレビのニュースを見て…衝撃を受けたけど、津波の被害の様子を見て同時に日本人の事を強く願いもしたね。
●女性
日本に住んでいて、その日は仕事を切り上げて家にいた。
家で大勢の人を招いてパーティをする予定で、ゲストをもてなす準備をしてる時に突然地震のカタストロフィが!
それから揺れ!津波!原発事故による放射性物質の放出!
アラーの名を呼び、地震の破壊でこれが最後になるかもとカリマ(イスラム教の教えを表す言葉)を言い続けた。
それから放射線のレベルが危険な域まで高まったから15日間職場に行く事が出来なかった。
多くの人が日本を離れて、私達も飛行機のチケットを取ったんだけど、結局日本を離れなかったんだ。
日本が大好きだから。
●セントジョンズ、ニューファンドランド・ラブラドール州、カナダ:女性
初めての日本旅行から帰った来た直後にあの地震があった。
ショックを受けたし、もう一度日本に戻りたくなったね。
●キャメロンパーク、カリフォルニア州、アメリカ:女性
手を洗ってる時に母親が”日本に住んでる友達はいない!?”と叫んできたな。
当時、静岡に友達がいたから”いるけど、何で?”と答えたら、母親はテレビを見てて、私も破壊の様子を一緒に見てた。
●香港:男性
日本の人達は勇敢で尊敬できる人々だ。
●男性
恐ろしいジェットコースターだった!
脳の手術がその日じゃなくて本当に良かったよ。
横浜に住んでるんだ。
●女性
日本での暮らしで2番目に悲しい出来事だったね。
1番は阪神・淡路大震災で2番目がこの津波。
泣き通しで何日も集中できなかったよ。
良い人達、尊敬できる人達がこんな目に遭うなんて本当に悲しかったな。
テレビでニュースを見る度に心が痛んだ。
当時私は被災地から遠く離れた場所にいて、街には給水設備がたくさんあったから私はボランティアに加わってペットボトルに水を詰めて被災地に送る作業をしたよ。
●モービル、アラバマ州、アメリカ:男性
この地震がどれ程みんなの考えを変えただろうか。
1952年にカリフォルニアで起きた地震(マグニチュード7.3、12人が死亡した)があってから、私は揺れがすぐにわかるように眼の届くところに水の入ったコップを置くようにしたんだ。
あれは本当に衝撃だった。
●ベラグラス、ブラカン、フィリピン/日本在住:男性
診療所で目の周りのイボを取ってる時に揺れに襲われた。
自分が住んでる所は新潟県だから揺れは少なかったけど、長かったね。
それからニュースで地震による破壊と津波の様子を見てた。
●日本在住:女性
夫のオフィスにいた時に揺れ出して、すっかり狂乱してビルから逃げ出した。
なんとかビデオを撮ることは出来たけど。
●女性
おしごと ひまに なった(原文ママ)
●女性
ヘリで空撮した、茶色の巨大な水の塊が大地を飲み込む様子を思い出す。
あんな風景は見た事もなかった。
日本語の先生もショックを受けてた。
正直言うと、みんなショックを受けてたんだけど。
直ぐに高校でチャリティーを始めて募金を募ったよ。
2012年の夏に私は(自分でも驚いた事に)高校生グループによる『キズナ強化プロジェクト』に応募して、2週間日本に行って岩手県北部での震災の片づけの様子を見学しに行ったんだ。
日本は本当にパワフルで記憶に残る体験だった。
母なる自然の大いなる力は時に簡単に忘れられてしまうものだけど、私は日本人の強さが大好き!
2週間日本にいて、本当に多くの事を学んだよ。
●女性
テレビの前で涙を流してた。
本当に悲しかったし、日本に住んでる友達が死んでしまったのではないかと恐ろしかった。
友達は安全な地域に住んでたから無事だったよ。
●日本在住:女性
地震があったのは午後2時46分で、学校を出た直後だった。
叫びながら息子を超古い5階建ての校舎から引き離したよ。
窓ガラスが割れて息子や他の子供達の上に降ってくるんじゃないかと恐ろしかった。
みんな何も気づいてないみたいで、先生達もしばらく何もしてなかったね。
嬉しい事に子供達には何事も起こらなかったけど、あの日感じた恐怖は絶対に忘れないと思う。
●男性
日本にいて、地球が終わるんじゃないかと思った。
あんな体験は二度とごめんだ。
●メソ、アリゾナ州、アメリカ/日本在住:男性
『グランツーリズモ』を遊んでて、揺れが大きくなるまでは小さい地震だと思ってたんだ。
外に飛び出したら地面が波みたいに揺れてた。
電気も水もなかった。
嬉しい事に相模原のお弁当屋さんが無料で食料を提供してくれたよ。
●女性
日本に住んでて、揺れが凄かった。
それから岩手に復興支援に行ったよ。
当時は東京で仕事中で、揺れが大きくなっていったから外に避難したら路駐してある車がハイドロカーの如く揺れまくっていました。
大地震になると凄まじい音がする事もあの時初めて知った。
職場の中は棚が倒れまくり、片付けようとしたけど余震が酷過ぎたので帰宅する事になり、幸運にも自転車を職場に置いてたからそれで自宅まで帰れたのですが道中は車と人で埋まっており、付近のビルからは煙で立ち上って恐ろしい光景でした。
何より怖かったのは橋を渡る時で、余震の間隔を測ってダッシュで通り過ぎました。
部屋の中も滅茶苦茶でしたが、東京はまだ遥かにマシだったと知るのはもうしばらく経ってからでした。
今もまだ復興中の場所が残っています。
揺れたからTwitterで「地震なう」