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先日、スズキ自動車の元会長である鈴木修氏が94歳で亡くなりました。
インドでシェアトップの自動車メーカーであるスズキの立役者となった鈴木修氏逝去にモディ首相も追悼のメッセージを投稿していました。

引用元:X.comteam-bhp.com

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お悔やみを。
初めて買った車がマルチ・スズキ800だ。

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彼はマルチ・スズキでインドの交通手段を一変させた。
おかげで何百万人もの人が自動車を利用できるようになった。
鈴木修の自動車業界への影響は何世代にも渡って人々の記憶に残るだろう。
真に先見の明のある人だった。

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素晴らしい革新者だった。
スズキの車は世界中を走っている。
彼は世界を後押しする存在だった。
寂しくなるけど彼の作った製品は残り続けるだろう。

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彼のリーダーシップの下でスズキは幾多の困難を乗り越えて革新と拡大を進め、世界的な大企業になった。
彼はインドに深い愛情を持っていて、マルチと協力することでインドの自動車市場に革命を起こした。

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お悔やみを。

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世界の自動車業界に大きな影響を与えた先見の明のあるリーダー、鈴木修氏逝去を知って深い悲しみを感じている。
彼の戦略的先見性と献身によってスズキは世界的企業に成長した。

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スズキは信頼と同義。

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94歳なのか……
日本人は本当に長生きだな。

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彼が神のもとに発ってしまって悲しい。
オーム・シャンティ(※最高級のマントラでシャンティは”平和、休息、平穏、至福”という意味になる)

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彼が私たちにマルチ800をもたらしてくれた。

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マルチ・スズキは二国が互いにWin-Winの関係になった協力関係としてインド国内で唯一の例だと思う。

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スズキ(マルチ・スズキ)はインドにとって非常に重要な存在だ。

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(※元インド首相)インディラ・ガンディーの息子でありスズキと提携してマルチを国民車にすることに尽力したサンジャイ・ガンディーのことも覚えておいてほしい。

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スズキはマルチと提携して有名になった。
当時の車と言えばアンバサダーとフィアットで、家にマルチ・スズキの車があるのはステータスシンボルだったな。

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鈴木修の様な先見の明のある人が亡くなって本当に悲しい。
彼が世界の自動車業界に与えた影響、マルチ革命を通してインドと築いた特別な関係は何世代にも渡って記憶に残ると思う。
彼の献身、謙虚さ、リーダーシップは消えることのない足跡を残した。

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日本と日本人は大きなものから小さなものまで革新と技術力を持っている。
スズキ、ホンダ、セイコーなど世界でリーダーシップを持っている。

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世界にとって大きな損失だ。

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悲しい。
彼のリーダーシップがスズキを変え、インドの自動車業界に革命をもたらした。

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彼はインドにとって友人だった。

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インド政府と提携してハリヤナ州にマルチの工場を建て、その後にグジャラート州ベチャラジにSMG(※スズキ・モーター・グジャラート、スズキの自動車工場)を建てた先見の明のある人物だ。
彼の功績はインドの自動車史と未来において大きな役割を果たした。

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自動車業界を代表する人物であった鈴木修氏逝去に心よりお悔やみを。

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彼はインド国勲章(※パドマ・ブーシャン勲章:wikipedia)も受勲してる。

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先駆的な精神で自動車界を革新してインドの自動車産業に革命をもたらしたリーダーだ。
本当に素晴らしい人だった。

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2024年は素晴らしい人物が1人また1人と去ってしまった。

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記事によるとクリスマスにリンパ腫で亡くなったのだとか。
スズキは彼が最高経営責任者、会長を務めているときに当時の主力市場であった軽自動車部門からの脱却を決断した。
彼のおかげでマルチ・スズキがあると言っても良い。

スズキのインド投資
スズキはインド向けの国産車メーカーを設立するために1年分の利益を投資するという大きなリスクを冒すことを決断した。
のちに彼は”世界のどこかでナンバーワンになりたい”という強い願望に突き動かされていたと回想している。
当時のインドは自動車産業にとって辺境であり、年間自動車生産数は4万台、そのほとんどがイギリス車の模造品だった。
インド政府はインド製の手頃な価格の国民車を生産するために当時の首相インディラ・ガンディーの息子であるサンジャイ・ガンディーの尽力のもと、1971年に設立されたマルチを国有化したばかりだった。
マルチは外資との提携を必要としていたが当初計画していたルノーとの提携は検討していたセダンが国内のニーズに対して高価すぎることと燃費が不十分と判断されて頓挫していた。
マルチは様々なメーカーのドアをノックし続けたがフィアットやスバルなどほとんどのメーカから無視され、偶然にもスズキからも断られていた。

この提携はスズキ自動車の取締役が日本の小型車のライバルであるダイハツとマルチが提携するかもしれないという新聞記事を見たことで始まった。
彼は本社に連絡してマルチの提案を断ったことを知り、それからマルチに連絡して日本に呼び寄せ、もう一度チャンスが欲しいと頼み込んだ。
そして数か月後に意向書が調印された。
そして1983年にスズキ・アルトをベースにした初めての車マルチ800ハッチバックが発売され、瞬く間に成功を収めた。
現在、スズキが株の過半数を保有するマルチ・スズキは依然としてインド自動車市場の40%のシェアを握っている。
ソース:thehindu.com

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インドの自動車産業界は彼に本当に感謝している。
マルチ800は当時のアンバサダー、フィアット、ヘラルド、ジープよりも遥かに優れていただけでなく、インド市場に技術と信頼性で2~3世代進んだ製品が一気に広まっていくことになった。
それにアフターサービスの品質と姿勢も当時の他メーカーの正規ディーラーが持っていたそれとは全く異次元のものだった。
鈴木氏の更なる功績はマルチがベンダーサプライヤーのネットワークを構築して世界品質またはそれに近い品質の部品を生産するように訓練していったこと。
マルチ・スズキが築いた基盤が10~15年後に参入した他の全てのOEMメーカーにとっての足掛かりになった。
世界第4位自動車メーカーになったことを知りながら安らかに眠ってください。

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鈴木さんにとって1,970年代後半のインドに投資するのは大きな賭けだったと思う。
彼の会社はトヨタやホンダのようにこういう無謀な賭けができるほど無限の資金力を持っていたわけじゃない。
当時のインドの道路、政府の管理能力、自動車産業を見ればどんなに楽観的な人間でも動揺したと思う。
両国両者の文化、労働倫理、技術レベルに共通点は全くなかった。
そして何の実績もないサンジャイ・ガンディーという王子がインドという混沌の境界線上にあるこの国で実権を握っていた。
正気な人間や企業ならこの男が下した決断に応じることはなかっただろう。
これは決断を下すべきではなかったという実例になるはずだった。
しかし鈴木修はそうした。
そして5年以内にその考えが正しかったことが証明された。
彼の作った800ccの車は1980年代最大のスターになり、今日までのスズキの繁栄を築き上げた。
それから先はインドの伝説的ストーリーだ。
安らかに眠ってください。
あなたの作った車が旅路を付き添いますように。

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スズキがインドに進出してからインドの自動車産業は完全に変わった。
自動車のパーツから流通、販売店の基準に至るまで影響を与えている。

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あらゆる点において偉大な人物だった。
アイコン的人物がこの世から去ってしまうのは悲しい。

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(※インドの自動車記者)ホルマズド・ソラブジーの言葉を借りれば、彼はインドの可能性を信じ、他の誰もが賭けようとしなかった時にインドに賭けてくれた。
自分は何の臆面もなくスズキファンだと言えるし、これまでに何台も所有してきた。
今も1台持ってる。
パドマ・ブーシャン勲章を受賞した鈴木修さんが亡くなったのは本当に残念だ。
今年日本に行った時に浜松に行ってスズキ歴史館(※公式サイト)を訪問できたのが嬉しい。
いつも温かい思い出として蘇ってくる。

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R・C・バルガヴァ(※マルチ・スズキの元CEO)の著書『マルチ物語』を読んだことがあるけどスズキがインドに進出するのがどれほどの賭けだったのかよくわかった。
当時のトヨタや三菱ならインド市場への参入、しかも政府をパートナーにするという考えに尻込みしただろう。

もし鈴木修が決断しなかったらどうなっていたのか、それは誰にもわからない。
スズキはダイハツのように三菱や日産など他社に買収される羽目になっていたかもしれない。
最初のマルチ車はルノーかフォルクスワーゲン、ダイハツになっていたかも。
もしこのプロジェクトが1~2年遅れていたらインディラ・ガンディーの暗殺後に行き詰っていただろう。
そして1990年代に自動車市場が開かれるまでインドの自動車産業は10年遅れていたかもしれない。
彼はまた根っこの問題に対して断固たる意志で取り組んでいた。
それは政治的圧力や経営陣の階級意識に屈せず、マルチ・スズキが日本の労働文化を模倣する力となってくれた。
そしてスズキの車同様に彼は超保守的でコスト削減のプロだった。
『マルチ物語』には当時のスズキ本社にはエアコンや豪華な部分は全くなく、前日に訪れた三菱自動車本社に比べて殺風景に見えたと記述してある。
鈴木修は役員の移動コスト削減に努め、電気代やメンテナンス費用を削減するためにレイアウトを変更できないか自ら工場に足を運んだという。
インドもインドの自動車産業も鈴木修には多大な恩義を感じている。

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故・鈴木修元会長がいなかったら1980年代にまだ存在してなかったインドの自動車市場にどこが参入したんだろうか。
10年以上前にマルチ・スズキの元CEO、R・C・バルガヴァが『マルチ物語』という読みやすい本を出版した。
この本ではマルチが多くの自動車メーカーの関心を集めたこと、その中からとあるメーカーが決断するまでの経緯、マルチ800の製造、その後の出来事について詳細に書かれている。
読み応えのある本だ。

父親は1980年代に赤いマルチ800を持っていて、家族みんなそれが大好きだった。
スズキは国民車のメーカーになる運命だったんじゃないかと考えることがある。
あの決断がどれほどの幸運だったか、どれほど時代が流れても変わることはないだろう。
スズキがインドに進出してもう何十年にもなるけどいまだに小型車部門を支配している。
彼らは技術を提供し、ベンダーネットワーク、部品の品質維持、サービスのネットワーク、最高レベルのワークショップなど次々と前例を作っていった。

1990年代にインドが市場開放をした時、自動車に関していえばマルチ・スズキの成功がなかったら他のメーカーはインドに参入しようと思っただろうか。
スズキがいなければ他のメーカーがインドに来ることはなかったと思う。





単純にインドで人気があるメーカーというだけでなく、インドの自動車産業そのものの改革者であると評価されています。
今では日本とインドだけでなく世界的に人気な自動車/バイクメーカーとなっています。





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俺は、中小企業のおやじ (日本経済新聞出版)